翻訳と辞書
Words near each other
・ ユーリー・ベレジュコ
・ ユーリー・ボルザコフスキー
・ ユーリー・マムレーエフ
・ ユーリー・マルトフ
・ ユーリー・マルーシン
・ ユーリー・ミラーの実験
・ ユーリー・メス
・ ユーリー・メルニチェンコ
・ ユーリー・ヤクボフ
・ ユーリー・ヤロスラヴィチ
ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)
・ ユーリー・ヤロスラヴィチ (ムーロム公)
・ ユーリー・ラストヴォロフ
・ ユーリー・リトヴィノフ
・ ユーリー・リュビーモフ
・ ユーリー・ロディーギン
・ ユーリー=ミラーの実験
・ ユーリ海老原
・ ユール
・ ユール (スウェーデン)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公) : ミニ英和和英辞書
ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)[こう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公) : ウィキペディア日本語版
ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)[こう]
ユーリー・ヤロスラヴィチ(、1112年以前 - 1168年頃)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の孫、ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチの子にあたる人物である。ピンスク公:1142年頃 - 1148年1154年 - 1157年トゥーロフ公:1148年もしくは1149年 - 1150年1151年 - 1154年、1157年 - 1168年。(トゥーロフ・ピンスク公:1157年 - 1167年以前。)
1157年、キエフ大公ユーリー1世(ユーリー・ドルゴルーキー)が、トゥーロフ公位にあった自分の子のボリス(ru)に変えて、ユーリーにトゥーロフ公国を任せた。ユーリー1世はこの年のうちに死去し、翌年、新たなキエフ大公のイジャスラフ3世が、トゥーロフからユーリーを追い出そうと画策した。しかしこの試みは失敗に終わり、イジャスラフは策の再考を余儀なくされた。1160年、イジャスラフはムスチスラフと連携して、トゥーロフを包囲した。しかし都市を落とせず、今回もユーリーを放逐することはできなかった。1162年、ユーリーは次のキエフ大公となったロスチスラフ1世と講和を結んだ。
年代記における、ユーリーに関する最後の記録は1167年の記述である。また、ユーリーは、トゥーロフ・ピンスク公家の祖となった。
==妻子==
妻はグロドノ公フセヴォロド(ru)の娘アンナ。また、子には以下の人物がいる。
*イヴァン:トゥーロフ公。
*スヴャトポルク:ピンスク公・1168年 - ?。トゥーロフ公・1170年以降 - ?。
*ヤロスラフクレツク公・1168年 - ?、ピンスク公・1183年。
*グレプ(ミハイル)ドゥブロヴィツァ公・1168年 - 1190年。トゥーロフ公・1190年 - 1195年。
*ヤロポルク(be):グロドノ公・1168年 - ?。ピンスク公・1190年。
*アンナ:キエフ大公リューリク2世と結婚〔Анна (имя жен и дочерей русских князей и государей) // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона: В 4 томах. — СПб., 1907—1909.〕。
*マルフリダ:ルーツク公フセヴォロドと結婚。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.